若年性認知症の方との集いと1月17日

1月16日(土)1月定例の若年性認知症の方との集い(楽カフェ)が開催されました。

今回は、ご家族様のグループに参加させてもらいました。
詳細は書けませんが、本当に苦労されている様子、
その中でも色々考えながらケアをされていること等
熱い思いが伝わってくるものでした。

デイサービスの利用などはあるものの、ほぼフルタイムでケアをして行かなければならないのが家族です。
その家族へのサポートを、もっと深めていかなければならないと思うのです。

若年性認知症の方との関り

さて、そのように本人、家族にとって大切な集いの時間ではあるので、開催はされるべきだとは思うのですが、
大阪は「緊急事態宣言」が出ているのです。
それは「人の動きを止める」ことが大切なのですが、宣言が出てもお構いなくという感じがします。
行政からして地域活動は止めるな!ですから、では何のための「緊急事態宣言」なのかと思ってしまいます。
単に飲食関係が、感染率が高いからと、まるで悪者にしているような感じですね。

1月17日

震災メモリアル

昨日は1月17日

あれからもう26年も経過したのですね。
現地での救援活動は、今も深く脳裏に焼き付いて忘れられないものになっています。
というか、心の傷として残るくらいの衝撃だったかもしれません。

当時の救援活動を私は約3万7千字の文章として書き残していますが、そのうちのごく一部だけを転載します。

まずは初動の所から。正式救援隊の一員としてはこの時からですが、震災後すぐに先輩の安否確認のために現地には入っていました。ほぼ序章のようなところです。

1月17日

JR神戸駅の時計

地震から10日後、大阪の老人福祉関係者の被災地支援策もようやくまとまり始め、被災地に対する援助が徐々に動きだした。阪神間の市街地には老人ホ-ムの数は少なく(当時)、大きな被害を受けている所は少なかった。殆どが北区や西区などの外周部にあり、建物自体には問題は少なかったが、市中心部からの緊急避難の高齢者が各施設に押し寄せ、どの施設も定員を遥かにオ-バ-した状態にあった。

そのため、まずそれらの施設に対する職員の応援派遣が実施された。大阪の各施設から選抜されたケア職員達が三田経由でそれらの施設に向かった。各施設ともライフラインは維持されており、派遣職員が寝食に困るということはなかったが、これらの施設とは対照的に、ライフラインが全く破壊されたうえに、目前に大きな被害を見つめることになった特別養護老人ホ-ムが二か所あった。芦屋市の「あしや聖徳園」と、長田区の「長田ケアホ-ム」だった。

「あしや聖徳園」は21歳の若いケア職員を失っている。山好きの女性で、休みの日にはいつも山に行っていたという。彼女の住む文化住宅は一階が崩壊、仲間達が懸命に瓦礫を掘り起こしたが、彼女の恋人が瓦礫の隙間から手を延ばし触れた彼女の手はすでに冷たくなっていた。彼は、嗚咽し泣き崩れたという。

阪神大震災は、数多くの恋人達の愛をも引き裂いていた…。(ケア職員の犠牲者も出た)

「長田ケアホ-ム」は施設の目の前までが火災で何もかもなくなってしまった。前一面が焼け野原となってしまったのだ。目前の火災の中で、多くの人達が生きながら焼かれてしまったのだ。

1月17日

最初に救援に入った東灘区摂津本山付近
写真原本が不明のため、PCのワード画像より転写しているため、画像は見ずらいです.

次は実際の救援活動の一コマです。今も強く印象に残っているシーンです。

野寄公園にある自衛隊のテントの間に挟まれるように3~4人用の小さなテントが建っている。その小さなテントに寝たきりの母親を抱える息子夫婦が暮らしていた。3~4人用のテントといっても、ゆったりと寝ようと思えば2人までである。テントの中は非常に狭い空間なのだ。そのテントの外には辛うじて持ち出したと思われる洗面道具やバケツが置かれていた。

避難所の担当医師は、この老人の一般状態があまり良くないので入院の手配を進め、明日には入院出来るようになったと話してくれた。現在は点滴で何とか持ち堪えている状態だという。

しかし、寝たきりの彼女は私たちの前で、「家族と共に居たいから入院はしたくない。そのように、医者に伝えておいて欲しい。」と応えた。家族もその本人の意思を尊重した。
状態が悪化しつつある寝たきり老人が、劣悪な環境の続くテントでの生活を選んだ。

家を失い、生活を失い、全てのものを失った彼女にとって、家族は唯一失われずにそばに居てほしいものだった。ここで入院して離ればなれになって、家族までも失いたくなかったのだ。例え自分の命を縮めようとも、もうこれ以上、大切なものを失いたくはなかったのだ。
私たちは、そのテントをみつめることだけしかできなかった…。

その後、この家族がどうなったか、私は全く知らない。しかし、極限の中での人間の「絆」というものの強さを深く感じずにはいられなかった。
なす術なく立ちすくんでそのテントを見つめるだけの私達…。家族の「絆」を前にして、誰が「入院が最高の選択。」と云えるだろうか。
担当医師に本人と家族の意向を伝えると、その医師も何も云わなかった。いや、何も云えなかったのだ、きっと…。

1月17日

厳しい寒さの中、その方はテントでの生活を選ばれた。人生最後の選択だったかもしれない。

 

センター長の石川でした。